昭和50年01月12日 朝の御理解
御神訓 ―、「わが子の可愛さを知りて神の氏子を守り下さることを悟れよ。」
我が子の可愛ゆくないという者はありません。まあ言葉で申しますなら、千万無量と言う事ではないかと思います。それが子供に対する親の心であります。何でもない時にはまそれこそ何でもない様でありますけれども、一度例えば子供の難儀を見たり聞いたり致しましたら、その思いと言う物はそれこそ千万無量です。ですから天地の親神様が私共の上に、その様な思いをもって働いておって下さる、守っておって下さるんだと言う事を悟れと言うて、此処で教えておられますけれども。
我子の可愛さ解っただけでは悟れない。此れは神様のおかげが解って、そうして此れは実感としてです、親が子を思う思いすら此の様であるから、天地の親神様が氏子の事を思うて下さる事は、とてもとても此れのまあ言うならば、千倍万倍にもなる事だろうと、その子供を思うそのー情というか、その実感がねおかげの天地金乃神様のおかげを受けて、愈々本当な者になって来るんです。ですから先ずはおかげを頂かなければね解りません。そして子供を持って見て合点が出来るのです。
自分が子供を思う思いすらこの思いなんだから、天地の親神様の思いは、此れにどれ程しの思いでおありになかと言う事が解って来る。私は何と言ってもねお道の信心で、此れは私が今言える事はね、もう天地乃神様がね、何時もバックであると言う事、天地乃神様が何時も私の上に働いておって下さると言う事、もうこんな素晴らしい事はないです。だから各自が信心の稽古をする、と言う事は天地乃神様が、本当に此の様にして、私共を御守護下さってあるんだ。
守り下さってあるんだという、そのおかげをまず頂かなければ出来ん事です。そのおかげを頂いて子供の可愛さと言う物はです、此れはもう情感としてです、ですから例えばどんなに例えば苦しい事がありましてもです、氏子の苦しみは神の苦しみだと教えられるのですから、本当に私が不徳の為にこんなに苦しんでおります。私が不徳の為におかげ、所謂難儀を致しておりますと、此れを神様が御覧になって下さったら、私の苦しみ以上の苦しみを神様にさせておる事になるのですから。
神様あい済みませんと、神様に涙を流して泣きながら、どうぞ助けて下さいと縋る氏子はあるけれども、涙を流してお礼をいう氏子は少いと言われる。それは何かを頂いた時に、涙の出る程の有り難さと言う事ではなくてね、どうぞ神様おかげを下さいと言うて縋らなければおられん程しの苦しみをです、神様にさせておると言う事がね解るから、涙が出て来るというのでなからねばいけん。
もう此れはね日々の私の実感ですけれども、どういう難儀な問題が起こって参りましても、どういう難儀なお取次をさせて頂きましてもね、此れ程間違いのない天地乃神様のおかげを、日々もうひしひしとね私が実感しておる。成程私のバックには神様がバックだなと思うわずには居られない程しのおかげを受けておる。その事実がねこういう神様の御守護を受けての事であるから、もうその場でそれを思う途端に安心が生れます。
安心が生れるその次にはもう本当にそう言う安心が頂けると言う事の、喜びに一杯に心がなります。今朝も三時半にこちらに(親先生お控えの間)出させて頂きましたら、ある所から大変難儀なお取次の、電話が掛かって来た。西岡先生がすぐお届けに参りました。それで神様にすぐあのーーその事をお願いさせて頂きましたら。あれは何ですか、如来様ですか、如来様のう城にこうーー背中にかろうておられましょう、こんなの舟みたいなもの、あそこを頂くのです。
所謂天地がバックだぞと言う事です。ですから私の上には何時も天地がバックなんだ、それは小さい事というたら、本当に自分の心のちょっとした動きにでも神様が働いて下さる。間違った考えであったらすぐお気付けを下さる、大きい事でいうたら、それこそ天地が私の為に自由になって下さる程しの、おかげを日々頂いておる。何時も天地がバックだと、そういう神様のお働きの中に起きて来る事だからと思うたら、その場で安心が生まれる、安心が生まれるその向こうには、もうとにかく限りない。
何と有り難い神様を知り得たであろうかと言う喜びである。皆んなが同んなじ御守護受けておる、お守りを受けておるのですけれども、それを受けておる働きをです、現わし切らんでおるだけの事です。だからお道の信心は、金光大神のお敗次によってです、天地の神様のね十全な働きを、私共の日常生活の上に現わして行く稽古です。そこで何時も言う所の素晴らしいタイミングと言う事を言うでしょう。神様の一分一厘間違いのないお働き、御操合せそれをね、私は実感させて頂くおかげを日々頂いてです。
その神様の思いという願いと言う物は、親が子に掛ける願いと同じであり、また親が子に掛ける情感と同んなじである、質においては。けれどもその同じ千万無量というても、天地金乃神の氏子一人一人の上に掛けて下さる思いは、その言うならば千倍も万倍もあろうかと、思われるその情感がね、その子供を持って子供が可愛い、もうこんなにも可愛いいものだろうか、と。久留米の初代の石橋先生が、様々な御修行をなさっておられる、もう大変寒い日だったそうです。
一日お勉めを終られてその当時は布団を着らずに休まれる。掻巻き一つで眠られる。敷布団も勿論敷かれない。ですから休みがけに、そのお神酒をかんかんと付けられてね、それを一杯頂いてそのお神酒きの温もりで、その勢いで休んでおられたという。御長男の光男先生を、自分の掻巻きの中で、肌にピックリと抱いてそして本当に子供ちゃこんなに可愛いもんだろうかと思われた、そしたら御神殿の方から神様のお声でね「それが神の思いぞ」というお声を頂かれたと言う事です。
寒い時に子供を自分の肌に付けて、こうやってその抱きしめる、その心がねそのまま神の心ぞと。神様はこの様に人間氏子一人一人の上に思いを掛けて下さるのだぞと言う事であります。そこになら神様の働きと言う物は様々にあります。昨日の御理解の中に連獅子の話を致しましたが、可愛いいからこそ突き落とす、おかげ受けて貰わんならん思うから、叱りもすると、撫で擦りされる様な事ばかりではない。
言うならば母性愛、そして又父性愛。父親の愛情又は母親の愛情をもって神様が、その両面にですお働きを下さる、辛い思いをする時には言うならば父親の愛情をもって御指導を頂いとる時だと言う風に頂かして貰うて、苦しう御座います。けれどもね神様は私が苦しんでる以上の苦しみを、神様にさせておると言う事が、あい済まん事ですと言う事になる。昨日午後の奉仕をさせて頂いとります時に、末永先生がお届けに参りました。今朝お夢を頂いた。それは自分の血液型を検査して頂いておるお夢であった。
それで私はその事を神様にお取次さして頂きましたら、こう言う事を頂いた。まあそれを纏めると、こう云う事になる。「人力をもって善に導く事は出来るが」、人間の力をもって善導をする事は出来るというのです、けれども「善の種を作る事は出来ない」と善に導く事は出来る、けれども善の種を作る事は出来ない、そこに神力によらなければ出来ないと、言う事で御座いました。ね。
私は此れを頂いてまあ本当に、それこそ色々分からせて頂く事が御座いましたが、最近合楽で言われておる、所謂自力から他力へと。表行をすてて心行もうこの表行という行を、もう愈々厳しくしない事になっておる。その直後でした。今竹内君が此処で修行致しとります。昨日の朝の御祈念に、何時も四時の親先生の御祈念に出らして頂くという、寒修行中其の事を神様に、お願いしておったんですけれども、昨日は一寸時間がズレた遅れた訳です。前の晩に休まなかった。
一寸お酒を頂いたりした、そんな事で遅くなったと。こう言うとります。だから今ね、合楽で言われる心行と言う事はね、まあ色々にそのうまあだ私も解らんのだけれども、此の表行から心行にならせて頂いたら、何とはなしに、こう締りが無くなった様な感じがする。いや表行よりも心行の難かしさを愈々感じる。此れが正教さん以前(表行禁制を仰せられる以前のこと)だったらどうだろかと、例えば四時のご祈念に、例えば何分間切れたっちゃです、やっぱり切れたは切れたのですから。
そのお詫びの印に一週間断食をしますとか、十日間断食をしますとか、皆んなそれをやりました。それでねプラスマイナス、お詫びが出来た様な感じがしよった。所が今それが出来んのだから、その一分間を切らん様にもう前の晩から精進する事が心行だと言って昨日話した事でした。人が酒を飲みよってもいや明日があるから、何かテレビども見よる、それをいや明日があるから、もう前の晩からそういう心掛けをする事が心行なんだ。そしてなら一分一厘間違いのない。
その神様とのお約束の事を守りぬかせて頂くと言う事が心行なんだ。それと同んなじ意味の事を末永先生にも話した事でした。例えば此処で一時、四時と御祈念がある、ね。そういう時に例えぼ作業服のままどん出て来たり、それに又遅れたりもう今はね、末永さん合楽ではあんたどんが、しようと思うたっちゃー水行も出来なければ断食行も出来ない。今までその行が出来とる時には何とはなし、シャンとしとったけれども、それ以上にシャンとしなければ出来ない。
今の合楽はそういう、まだ私も良くは解らんけれどもね、心行と言う事は此れはとてもとても表行よりも大変難かしい、その難かしい修行に取り組まなかったら駄目だぞ。というてあの話した事でした。そこで取次ぎさせて頂く者がです、あんたが血液の検査を受けておると言う事は、どう言う事かと言うと、何時どの様な時に誰だ大変の問題をお取次ぎ願うか解らない。そん時にすぐ助けてあげられるね、自分の血液の型と言う物をチャント知っておいて、ね。
例えば自分の血液を過ぐに人に、人の助かる事の為ならあげれる心の準備と言う物が必要なのだ。私共の様に例えばO型であればね、此れは誰にでも助けてあげる事が出来る、出来るならばです、何時も助けてあげる事の出来る0型にならせて頂かなけりゃいけん、しかもそのO型がです、何時でも人に差し上げられれる心の準備をしとかなければならない。それは私でも年に何回か位はです、例えばお取次を願われたり、お伺いがあったりすると一寸待って下さい。
後からと言うて自分の心が少しでも乱れておる時には、伺う事は出来ません。そう言う事がないじゃないですけれども、何時でも神様と通うておる心掛けと言う物を、何時でもいうなら私のO型の血を人に分けて上げられる準備がちゃんと出来とる。あんたのは場合は自分で何型か解らなかったから、此処でなら何型かはっきり解ったと言う位にです、例えばならそれはどう言う事かというとね、なら御結界なら義結界の奉仕がもう楽しうて応えんと言う事にならにゃ駄目だよと、言うてまあ話しました。
同時にです今まで例えばそういう表行、言うなら人力をもってのお取次の場合はです確かにそのおかげをお取次をする事は出来るけれども、無限に繋がる所のおかげのお取次が出来なかった所が、過去の合楽の信心だったと思う。今の合楽の信心お取次を頂いたら、もう限りないおかげの頂けれる所謂神力無限である、その神力無限の働きをお取次さして頂く。表行を廃して心行になったと言う事はそう言う素晴らしい事なんである。此れはまあ本当に、研究しなければいけないね。
此の心行をもっともっとです工夫研究させて貰わなきゃーいけない、しかもその心行は言うならば人力をもってしてはね…。ただ善導する事だけは出来る、おかげをお取次する事だけは出来るけれども、神力によらなければその根本から助ける、その種を変える程しのおかげにはなって来ないのだ、人力では。無限の神力、そのだから無限の神力に縋るなら無限の神力が頂けれる信心とは、どういう信心かと言う事を一つ愈々研究しなければいけない。此れはね今合楽で、自力を棄てて他力で行く。
表行を棄て心行で行くと言う事は、此れは大変なおかげに繋がる事なんです。私もその事を末永先生お取次させて頂いて、まあ本当に心行とは心行とはと色々その心の中に、まあー昨日から思い続けさして頂いておる「心行とは不平不足を言わぬ事だ。心行とは暑い寒いを言わない事」だと、此れは二十数年前に頂いた事であります。今日私はその事を思わして頂きよりましたら、あの六地蔵さんを頂きました。
はぁやっぱりギリギリ心行とはどう言う事かというとね、心行とはね結局一切を有難しと受ける事ですよ、心行とは。心行とは一切を合掌して受ける事です、それが心行です。お爺さんと、お婆さんが、愈々明日はお正月だというので、お餅も搗いてない。そこで何がしかの物を持って町に売りに出た。そして帰りに糯米ども買うて来て、そして餅を搗こうというのである。まあおかげで何がしかのお金を得る事が出来た。大変寒い雪の日であった。帰りかけると丁度お寺さんの前に並んで御座る六地蔵さんが。
それこそ雪の綿帽子の様に雪を被って立っておられるのを見てから、ああ寒かろうと思うたら、ジッとはしていられない。そこでその幾らか得たその金で、甚八笠を買ったけれども五つしか買えなかった。それでもその五つの笠を地蔵さんに一人一人、雪を払うては被せてあげた。そして最後に一人のお地蔵さんの、足らん所は自分のタオルを出して、頬包みをした。此れであなたは此れで我慢して下さいと、言うて帰らして頂いた。お婆さんがです、今日は寒かったでしょう、今日の首尾はどうですか、と。
こうこうで、売れはしたけれど、帰りにこうこうだった。お地蔵さんに甚八笠を買って差し上げとったらお金が無くなってしもうた。そしたらおばあさんが、それは善い事をして来なさった、もう今年の正月はもう愈々、搗いた餅より心持ちで行きましょうと言うてその晩は休んだ。所が夜中に表でガタガタ音がする、六人のお地蔵さん達が皆んな、家を建てる人がある、お餅を搗く人がある。
もう一人一人に分担しながらね、もう働いておられる。私はこの話をもう何時も父がそれこそ掻巻きの中に抱いて、所謂寝物語りに話しているこの話を、それこそあの話をせろ、あの話をせろというて、何回聞いたか解らない程に六地蔵さんの話を聞きました。ね。例えばお爺さんがです、言うならばお地蔵さんに笠を買って被せた。そう言ういうならば優しい有難いその心ではあるけれども、帰ったらお婆さんがまあ、あなたばっかり馬鹿じゃんのち、と言うたらそういうおかげは頂けなかったろう。
折角あなたそのー幾らかお金が出来たのに、それをあなた六地蔵さんにどんやってからと言うとったら、其の話六地蔵さんの話にならなかっただろう。ね。所がお婆さんも、又それに負けない位な神心の強い人であったと。それは善い事して来なさったと、もうなら今年は搗いた餅より心持ちで行こうという、そう言うもう一切を喜びで受けて行くという行き方にですね、人間の幸福の条件の全てがです、六地蔵さんによって出来たというのです。私は六地蔵さんを頂いて、改めてその話を思い出さして頂いた。
心行とはそう言う事なんです、そこからね限りないおかげの頂けれる世界が開けて来るのです。ですから心行とはもう愈々です、だからそういう心の状態にならせて頂く迄に、なら私が正教さんいに言った様に末永先生に言った様にですね。具体的にいうと明日四時の御祈念に、いや明日じゃない寒修行中は一分だって切りませんと、心のに決めさせて頂いとるのが切れた。表行の時代はそのお詫びの印に一週間も断食すれば、それでもうお詫びが済んだ様な気持ちが生まれて来た。
けれどもそれでは唯おかげの世界だけである。だからそういうおかげを頂かせて頂く為には、もう前の晩から準備がいる。いらぬ事に夜更かしをしちゃならん、酒を飲み過ぎたりしてはならん。色々と細かい心を使わせて頂いて明日の四時の御祈念に、それこそ一分だって切らん様な、おかげの頂けれる為の前準備がいる。それが心行だと言う様な所をです、私は行かなければ、そうした神力無限というか、無限のいうなら神様の働きに、あう事は出来ないと。
そういうおかげを頂きながらです、神様の一分一厘間違いない唯病気が治った、災難が避けられたというのではなくて、もう神様の無限力に触れて行くと言う事です。そこから初めて天地がバックであるという、言うなら確信が生まれて来るのです。そういう信心からしか生まれて来ないと思うです。お取次を頂いてお願いをした事だけは素晴らしいタイミングの上におかげを頂いてもです、何時もがねそう言う神様のおかげを受けておる、そう言うお守りを受けておるという働きを感じれて始めてです。
安心が生まれて来ると思うのです。そう言うおかげを頂いてです、始めてです神様のいうなら、私共が子供の可愛さを知りてと言われる子供のそれこそ子供ちゃ、こんなに可愛いいもんだろうかという、その情感がです天地の親神様もそう言う情感で、私共の上に働き下さるんだと言う事が解った時に、初めて成程天地金乃神と申し上げるけれども、天地の親神様と言う事が解るのだと言う風に思うのです。
此れは私は今自力と他力と、又は表行と心行と言う事の区別がはっきりした今日です、もう愈々神様の無限の働きに触れられる事の為の、今は合楽全体の者が修行していると言う事が言えます。そしてもう何が有り難いと言うても、そしてもう何が有り難いというても、何時も天地がバックであると言う事をです、何時も感じられる信心を頂いて頂きたい。しかもその天地がバックであると言う事がです、今いう親が子を思うその情感を持って御座る神様が、親神様がバックであると言う訳である。
そこでですね私が末永さんに申しました様に、人間の力をもってです人間の力をもって善導する事は出来る、お導きをして上げる事は出来る。おかげを取次がして頂く事は出来るけども、その種まで変える事は出来ないと言う所を合楽では、その種までが変えられるだけのです、信心を御互いに今頂いておると言う事であります。家柄人筋となってとこういう御理解が、み教えの中にありますがです、いうならば赤を白に変えるだけの働きと言う物は、此れは神力に無限の神力によらなければ出来ないと言う事です。
だから此れは合楽全体の上に言えれる事はです、今までは人力をもって、私がお取次きして頂いておったと言う事です。ですからおかげも頂ける、または善導する事も出来たんですけれども、けれども根まで変える事、種まで変える事は出来なかった。こう言う信心が今合楽で言われる様になって、此の方と言う物は、だから愈々表行より心行というね、自力と他力と言う所の信心と言う物をです。
もっともっと研究もしなければならない、解りもしなければならない、また実際体得もして行かねばなりませんがです、もう真から根っからおかげの頂けれる世界に、合楽は一歩踏みでしたと言う事が言えます。良い種を作る事は出来ない、それは人力では出来ないと言う事です、だから今の合楽の信心の姿勢と言う物がです、無限の神力に触れて行くと言う事になるのです。その無限の神力に依る事になりますとです、どう言う深い言うならば廻りであろうがです、何と申しましょうかね。
まあ頭が良いとか悪いとか言いますよね。あすこは頭の良か筋とか、あそこは頭の悪いとか、確かにそれはあるです。それは種が変えられない証拠です。所が今の合楽の信心を、まともに真面目に頂いて行けばです、そう言う例えば頭の悪い種ではなくて頭の良い種に変えて行けれるだけの働きが受けられる信心を私共は、身に付けて行こうと精進していると言う事になります。
ですから信心の言うなら見解と言う物を、大変巾広く私共が頂いとる信心は、天地の親神様を本当にバックとしてです、おかげが頂けておるその実感を、感じさせて頂けれる信心をです、愈々見に付けて行かねばいけないと思います。何が一番有り難い、と言うても、もう本当に天地がバックだと、此れが信じれれる事程有り難い事はない、と私は思うですね、
どうぞ。